【中島登】新選組の謎多き隊士が遺した貴重な資料『中島登覚書と戦友絵姿』



新選組と言えば、池田屋事件や禁門の変などで名を馳せたことで有名ですが、その中には名も無き隊士やあまり知られていない隊士も多数存在しています。

今回は新選組の中でも特に謎に包まれた隊士である「中島登」に焦点を当て、彼の生涯と貢献について深掘りしていきます。

謎多き隊士:中島登

中島登(1838-1887)は武蔵国多摩郡八王子出身で、八王子千人同心の一員であった中島又吉の長男として生まれました。

剣術の流派は天然理心流で、新選組の局長である近藤勇とは遠縁の関係にあるとも言われています。しかし、彼の新選組入隊の経緯は謎に包まれており、いくつかの説も存在しています。

新選組入隊の謎

中島登の新選組入隊には複数の説があります。

一つは、慶応3年(1867年)に江戸で行われた隊士募集に応募したというものです。しかし、中島自身によれば、それより数年前に近藤勇の要請で武州、相州、甲斐の3ヶ国を探索していたとも言われています。

もう一つは、千人同心組で同僚を斬って脱退した後、京都に上って新選組に参加したともされています。

貴重な遺品:中島登覚書と戦友絵姿

中島登は、新選組に関する貴重な資料を二つ残しています。

一つは、新選組のエピソードや戦史をまとめた『中島登覚書』

もう一つは、新選組隊士の肖像を集めた『戦友絵姿』です。

これらの資料によって、中島登の名は後世に長く記憶されることとなりました。

戦友絵姿:貴重な資料

『戦友絵姿』には「近藤勇、土方歳三、斎藤一」などの新選組の幹部隊士が描かれています。

この肖像集は、現在でも新選組に関する特集で頻繁に引用されるなど、非常に貴重な資料となっています。

晩年と遺した言葉

中島登は新選組が解散した後、浜松に居を構えて園芸で生計を立てました。特に観賞用の蘭で大成功を収めたと言われています。

明治17年(1884年)には浜松で「銃砲店」を開業しました。彼は自らの戦歴について「砲弾の下を潜ること31回。白兵戦は7回。しかし、ついに無疵」と記しています。

まとめ:謎多き隊士、中島登

新選組には、近藤勇や土方歳三などの有名な隊士が多くいますが、中島登のようにあまり知られていない隊士も多数存在しているのです。

しかし、中島登はその謎多き人生と貴重な資料によって、新選組の歴史に独自の一ページを刻んでいました。

彼の生涯と貢献は、新選組研究においても非常に重要な位置を占めているのです。

たびノート📔~幕末~

柴隊士
『全国にはたくさんの観光名所があるので、こちらのページで確認してみてくださいね』

全国の”幕末・新選組”に関する観光スポットをご紹介【楽天たびノート】