【土方歳三の俳句】函館戦争中に詠んだとされる謎の句の真相に迫る!



土方歳三と俳句:二つの顔を持つ武士

土方歳三は新選組の副長としてその名を轟かせたが、彼の知られざる一面には俳句の才能がありました。

江戸時代に編纂された「豊玉発句集」には、彼が詠んだ多くの句が収められています。

しかし、新選組が京都で結成されて以降、土方の俳句活動はほぼ途絶えてしまったのです。

箱館戦争と土方歳三の詠んだ一句

土方が再び俳句に舞い戻ったのは、まさに戊辰戦争の最終局面「箱館戦争」が繰り広げられていた時で、土方の死の前年のことでした。

その句は、

「わが齢(よわい)氷る辺土に年送る」

というものですが、この句が実際に土方によって詠まれたものなのかは、今現在でも確定されていないとのことです。

この句が知られるようになった経緯

この句が広く知られるようになったのは、1978年に出版された『明治俳壇史』によるものです。

この本によれば、明治元年(1868年)の大晦日に箱館山のふもとで孤山堂無外という俳人が主催した俳諧の集いに土方も参加していたとされています。

孤山堂無外:水戸出身の商人と俳人

孤山堂無外は、水戸出身で江戸で俳諧を学んだ後、箱館に渡りロシアとの貿易で財を成した商人で、この集いは箱館の俳人たちと本土から渡ってきた4人の俳友を歓迎する会でもあったそうです。

参加者の意外な正体

しかし、この4人の俳友は、実は俳諧の愛好者ではなく、戦で敗れた後に榎本武揚の軍に加わり、蝦夷地に逃れてきた武士でした。その中には土方歳三も含まれていました。

句の解釈とその謎

土方が詠んだこの句は、極寒の蝦夷地で年を越すことになり、自身も年を重ねる運命にあるという意味を持っています。しかし、この句の出典については多くの疑問が残されています。

出典の不明確性

『明治俳壇史』の著者、村山古郷がこの句をどこから引用したのかは不明であり、さらにその情報源が何であるかも確定していないようです。

土方の俳句指導者:番頭の忠助

興味深いことに、「俳人豊玉の死」という記事によれば、土方が俳句を学び始めたのは、少年時代に奉公していた松坂屋の番頭、忠助(雅号桐里)からであったとされています。

結論:土方歳三の俳句、真実はどこに

成瀬櫻桃子が「俳人豊玉の死」で引用した文献が何であるかが明らかにならない限り、この句が本当に土方歳三によって詠まれたものであるかは不明のままとなり、この謎を解明するためには、さらなる調査が必要になるようです。

このように、土方歳三の俳句には多くの未解決の謎が残されています。武士としての彼とは別に、俳句を通じて見える土方の人間像を知るには、今後の研究で明らかにされることに期待しましょう。

たびノート📔~幕末~

柴隊士
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