沖田総司が”血を吐いた”のは嘘か?本当か?【池田屋での喀血の真実に迫る】



沖田総司が池田屋で血を吐いたのは本当か

沖田総司といえば、新選組のイケメンや天才剣士としてその名は広く知られています。

そんな沖田総司の有名なエピソードには、池田屋事件で血を吐いて(喀血)戦線を離脱するという話があります。

皆さんも、これまでに様々な映画や時代劇ドラマなどで、池田屋での対決の最中に沖田が喀血して倒れるシーンを何度も見てきたことでしょう。

近年では2021年公開の映画「るろうに剣心 最終章 The Beginning」でも、池田屋で沖田総司(演:村上虹郎)と緋村剣心(演:佐藤健)の対決中に同様のエピソードが描かれています。

しかし、このような描写は史実に基づいているのでしょうか?本記事では、この疑問について深く探っていきます。

説が分かれる発病の時期

新選組の永倉新八が初めて沖田総司が池田屋で労咳(※現在の肺結核)によって倒れたと証言したのは、大正2年(1913年)に「小樽新聞」でのインタビューでした。

永倉新八は沖田総司とともに池田屋に突入した隊士であるため、その証言は非常に信憑性が高い反面、この証言には疑問も多いのです。

例えば、池田屋事件が起きた元治元年(1864年)に発病したとすると、沖田総司が亡くなる慶応4年(1868年)までには4年間が経過していることになります。

当時の労咳患者の平均余命と比較すると、この期間は長すぎるようにも感じられます。同時期に同じ病を患った「高杉晋作」などは、発病からわずか1年で亡くなっているのです。

別の証言:小島鹿之助の記録

新選組と交流が深かった小島鹿之助が残した「両雄士伝」(明治6年)によれば、沖田総司は慶応3年(1867年)2月に労咳にかかったとされています。

この説が正しいとすると、沖田が亡くなるまでの期間は約1年となり、永倉新八の話よりも信憑性が高いと言えるでしょう。

永倉新八の直筆記録が明らかにする真実

ところが、平成10年(1998年)に永倉新八が明治初期に書いた「浪士文久報国記事」が発見されました。

この史料は永倉新八自身が直筆で書いたものであり、その史料的価値は非常に高いものです。この文中には、沖田総司が池田屋で発病し、戦線を離脱したと明確に記されていたのです。

結論:沖田が池田屋で病気によって倒れたのは真実

永倉新八の直筆記録によって、沖田総司が池田屋で何らかの病気で倒れたことは確かであると言えるでしょう。

この記録には池田屋事件の翌月に起きた禁門の変においても、沖田総司は病気で参戦できなかったと書かれていました。

しかし、その病気が労咳であるかは断定することはできないでしょう。

余談:労咳の治療と当時の医療状況

当時の日本には労咳の効果的な治療法はまだ存在しておらず「不治の病」でした。現代の医療技術によって肺結核は治療可能な疾患となっていますが、当時は違ったのです。

このような背景も考慮すると、池田屋事件で沖田総司が労咳で血を吐いて倒れたとすれば、病から4年も生き延びたという話は「奇跡に近い」とも言えます。

最後に

映画や時代劇ドラマでよく描かれる沖田総司の池田屋での喀血シーンが、史実に基づいている可能性は”五分五分”であると言えるでしょう。

今後、このような歴史的なエピソードの真実が解明され、多くの作品で描かれることに期待しましょう。

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柴隊士
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