幕府公認組織に
文久3年の八月十八日の政変の活躍により壬生浪士組は「新選組」の隊名を授かり、ついに幕府公認の組織となりました。
隊士の数も総勢100人を超える大所帯となっていました。
組織の規律を求められた近藤勇は「局中法度」と呼ばれる隊規を制定します。
この局中法度の制定には、「隊の統制」と「芹沢鴨ら水戸派の追放」という2つの狙いがあったとされます。
芹沢鴨暗殺
水戸派追放は、まず芹沢の腹心で局長から副長に降格していた新見錦の粛清から始められた。
文久3年9月13日、祇園の貸座敷山緒で遊興中に、これまでの数々の法度破りを理由に新見錦を切腹させます。
そして16日、土方歳三は「会津公から報奨金が出た」と芹沢らを誘い出して、島原遊郭にある角屋で宴会を開きます。
酒に酔った芹沢・平山・平間らが八木邸に戻り、眠りについた午前0時過ぎに土方・沖田・山南・原田の4人が寝込みを襲撃します。
剣豪の芹沢には土方と沖田が襲い掛かります。芹沢は斬られながらも隣部屋に逃げ込みますが、倒れたところを斬られて絶命します。
平山は山南と原田に首を斬られて即死。平間は逃げ出してそのまま京都から脱出しています。
水戸派の最後の一人、21歳だった野口健司も同年12月27日に切腹させられています。
水戸派を粛清した近藤勇は一人局長となり、総長に山南敬助、副長には土方歳三と試衛館メンバーで主導権を握ることとなった。
池田屋事件
元治元年6月。新選組は市中見廻りで不審人物を捕らえ、近く佐幕派公家・中川宮を捕らえ松平容保を殺害して市中を放火する計画を聞き出します。
長州藩などの反幕府派の浪士が続々と京都に潜伏しているとの情報を得た近藤勇は早速、松平容保に報告して大捜索を行います。
6月5日。武田観柳斎の隊が四条小橋の薪炭商・桝屋喜右衛門(本名:古高俊太郎)を捕縛。
屯所に連行して拷問を行った結果、計画が事実であると裏付けられた。
計画を阻止するため、新選組は祇園会所に集合する。
新選組は一時100人を越えていたが脱走などがあり、この時わずか40人となっていた。
6人を屯所に残し、出動したのは34人。近藤隊に10人、土方隊に24人の2隊に分けて捜索に出動した。
■近藤隊
- 近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、谷万太郎、浅野藤太郎、武田観柳斎、奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門
■土方隊
- 土方歳三、井上源三郎、原田左之助、斎藤一、篠塚岸三、林信太郎、島田魁、川島勝司、葛山武八郎、谷三十郎、三品仲治、蟻通勘吾、松原忠司、伊木八郎、中村金吾、尾関弥四郎、宿院良蔵、佐々木蔵之丞、河合耆三郎、酒井兵庫、木内峰太、松本喜次郎、竹内元太郎、近藤周平
午後8時半頃に新選組は行動を開始。近藤隊は木屋町通を北上し、土方隊は縄手通を北上した。
午後10頃、近藤隊は三条小橋の西にある長州藩の定宿である池田屋に踏み込みます。
これが新選組結成以来、最初で最後の真剣での大捕り物が始まったのです。
結果、新選組は勝利して大手柄を立てます。危機を未然に防いだ新選組は高い評価を受けて総額600両の褒賞金を幕府から下されました。
一方、この池田屋事件で討幕派は肥後藩士の宮部鼎蔵ら精鋭を失い、のちに維新が1年遅れたと言われるほど痛手を負ったのでした。
今回はこの辺りで、次回は「禁門の変へ」。