八月十八日の政変
文久3年8月18日。会津藩と薩摩藩は公武合体を急ぐ急進派公家を動かし、反幕府派を追放するクーデターを起こします。
これが「八月十八日の政変」です。
会津藩の命により壬生浪士組も御所へ出動します。
隊士たちは「ダンダラ羽織」を着用し、全52人総出での出動なので、いかに重要な事態であったのかが想像できます。
会津藩の合印、黄色の襷
出動した壬生浪士組が蛤御門に到着したところで事件が起こります。
壬生浪士組の存在をまだ知らない門前警備の会津藩士が、彼らを不審人物として御所への進入を禁じ、槍先を芹沢の顔に突き付けたのです。
芹沢は全く怯むことなくこう言い放ちます、
両者は一触即発な状態になりますが、壬生浪士組を知る会津藩士が駆け付けた事により事なきを得ました。
御所内に入った壬生浪士組に会津藩の合印である「黄色の襷」を渡され隊士達の士気は一気に高まったそうです。
そして彼らは夜を徹して南門前の警備を務めました。
※島田魁はのちに「当組南門前を守る」と島田魁日記に残している。
新選組誕生
政変は薩摩・会津の公武合体派が勝利して、7人の反幕府派の公家と長州藩は京を追放されます。
これを「七卿の都落ち」と言います。
そして政変での活躍を認められて、壬生浪士組は「新選組」の隊名を授かることになります。
浪士組から新選組になった近藤勇たちは、
と、大喜びしました。
同年10月15日に近藤勇が会津藩へ提出した文書に、
- 「新選組総代 局長 近藤勇」
と、書かれていた記録があるが「壬生浪士組」から「新選組」に正式に改名した確かな時期は特定できていません。
旧前川邸にの残る墨書
旧前川邸の雨戸には、有名な「落書き」(墨書)が残っています。
- 「會津 新選組隊長 近藤勇」
- 「勤勉 努力 活動 発展」
この雨戸の落書きはこれまで近藤勇が書いたものとされてきましたが、近年では字体が近藤とは違うとされ、書いたのは別人であるとされています。
しかし、新選組の隊士が書いたもので間違いないでしょう。
その力強い墨書からは、当時の隊士達の喜びを感じ取ることができます。
今回はこの辺りで、次回は「芹沢鴨暗殺」。