坂本龍馬(1836-1867)は日本の幕末維新期における象徴的な人物であり、維新の志士として広く知られています。
彼の業績や人柄は多くの小説、映画、ドラマで描かれ、その人気は今なお衰えを知りません。
しかし、坂本龍馬に関する話には多くの誇張や誤解も含まれています。
今回は坂本龍馬の歴史的な真実と、そこに紛れ込んだ嘘について掘り下げてみましょう。
- 坂本龍馬の出自と青年期
- 薩長同盟や大政奉還などの業績の嘘
- 坂本龍馬にまつわる誇張や誤解
- 司馬遼太郎の小説が与える影響力
教科書に載っている坂本龍馬の歴史は嘘だった
- 出自と青年期
- 薩長同盟の立役者は嘘?
- 大政奉還を実現させた船中八策は嘘?
出自と青年期
坂本龍馬は1836年に土佐藩(現在の高知県)に生まれました。
彼の家は下士という身分で上士と下士の身分差別が厳しい時代でした。
坂本家は醤油醸造を営んでおり、龍馬自身も商家の息子として育ちました。
幼少期は学問に興味を示さず、剣術に夢中になっていたと言われています。
薩長同盟の立役者は嘘?
坂本龍馬は1866年に薩摩藩と長州藩の同盟(薩長同盟)を成立させる重要な役割を果たしたとされています。
この同盟は幕府を倒すための決定的な一歩となり、日本の歴史における転換点となりました。
ですが、この会合において坂本龍馬は何もしていないのが事実のようで、龍馬が席を外している間に同盟が決まっていたとか。
大政奉還を実現させた船中八策は嘘?
坂本龍馬が考案したとされる「船中八策」は日本の近代化に向けた具体的な改革案として知られています。
彼はまた、幕府に対して大政奉還を提案し、徳川慶喜がその案を受け入れたことで平和的な政権移譲が実現しました。
ですが「船中八策」は実際に龍馬が考えたものではなく、師匠の「勝海舟」や「佐久間象山」などの考えを”まとめた”だけだったそうです。
誇張された?坂本龍馬にまつわる歴史
今日において、世の中で広く知られている坂本龍馬のイメージや功績は「司馬遼太郎」の小説である「竜馬がゆく」の”設定”であり、小説の龍馬が有名になり過ぎたとされています。
- 坂本龍馬は本当に無敵の剣士だったのか?
- 坂本龍馬は西洋式の服装を好んだ?
坂本龍馬は本当に無敵の剣士だったのか?
坂本龍馬は剣術に優れていたとよく言われますが、実際には彼の剣術の腕前については議論の余地があります。
確かに、彼は江戸で北辰一刀流の千葉道場に入門し剣術を学びましたが、その腕前が一流の剣士に匹敵するかどうかは不明です。
彼の剣術の才能が誇張されて伝えられている可能性があります。
坂本龍馬は西洋式の服装を好んだ?
多くのドラマや映画では坂本龍馬が西洋式の服装を好んで着用している姿が描かれています。
しかし、実際のところ龍馬が西洋式の服装を常用していたという証拠はほとんどありません。
当時の写真や資料には彼が通常の和服を着ていた姿が多く残されています。
彼の西洋への憧れが強調されすぎていると言えるでしょう。
結び:坂本龍馬の歴史の嘘
坂本龍馬は日本の歴史において重要な人物であり、その功績は評価されるべきです。
しかし、彼の物語には多くの誤解や誇張が含まれていることも忘れてはなりません。
歴史を学ぶ上で真実を見極める努力を続けることが重要です。
坂本龍馬という人物を通じて、歴史の複雑さと奥深さを感じ取ることができるでしょう。
要点をまとめます。
- 坂本龍馬は1836年に土佐藩で生まれる
- 坂本家は下士で醤油醸造を営む
- 薩長同盟を成立させたのは龍馬ではなかった
- 海援隊を結成し、商業活動を通じて維新志士を支援する
- 船中八策は「勝海舟や佐久間象山」の考えを龍馬がまとめた物だった
- 大政奉還を提案し、平和的な政権移譲を実現
- 剣術の腕前には議論の余地がある
- 西洋式の服装を常用していた証拠は少ない
- 坂本龍馬の影響力は明治維新に大きく貢献した
- 広く知られている龍馬のイメージは司馬遼太郎の小説が影響している