壬生浪士組誕生
京都に残ることを決めた近藤勇たち13人。
文久3年3月10日、黒谷・金戒光明寺に本陣を置いていた会津藩に連名で滞京の嘆願をするころには17人になり、3月12日に会津藩はこの17人の滞京を認めます。
その後さらに浪士組を離脱した7人が残留を希望したため、15日には計24人となっていました。
■新たに加わったメンバー
- 斎藤一、粕谷新五郎、佐伯又三郎、阿比留鋭三郎。
- 殿内義雄、家里次郎、根岸友山、遠藤丈庵、神代仁之助、鈴木長蔵、清水吾一。
この中で浪士組に参加していない人物は斎藤一と佐伯又三郎の2人。
斎藤一は試衛館の門人であり、既に在京していたので合流して加わったとみられる。
一方、佐伯又三郎がここに加わっている理由は不明とされています。
京都で斎藤一と交流があり共に加わった説。長州藩または幕府の間者だった説など。
彼らは24人が「松平肥後守御預り」となり、「壬生浪士組」の誕生となりました。
壬生浪士組の認識の違い
会津藩と近藤・芹沢たちが認識していた「壬生浪士組」には違いがあったようです。
会津藩が認識していた壬生浪士組は以上の24人です。
この24人は
- 近藤ら試衛館メンバー
- 芹沢ら水戸派メンバー
- 殿内ら新参メンバー
の3派に分かれていました。
殿内義雄が主導権を握ろうと動いたため、近藤・芹沢は手を組み、3月25日に四条大橋で殿内を切り捨てます。
根岸・遠藤・神代・鈴木・清水・粕谷の6人は京都を脱出し、阿比留は4月6日に病死します。
24日に大阪で家里を切腹させ、殿内派を追放させました。
残った15人。これが近藤・芹沢たちが認識していた「壬生浪士組」なのでした。
八木家門前に掲げた表札
壬生浪士組は、前川邸・八木邸を屯所とし、八木邸の門前に表札を掲げました。
表札の文字については、いくつかの証言が残っています。
■八木為三郎(当時14歳・新選組遺聞)
- 「松平肥後守御預 新選組宿」
■永倉新八(新選組奮戦記)
- 「壬生村浪士屯所」
■目撃記録(聞書)
- 「松平肥後守御預 浪士宿」
隊士募集し勢力拡大
壬生浪士組は大阪の平野屋で100両を借用して、大丸呉服店で隊服となる「ダンダラ羽織」を作製します。
さらに隊士募集を行い、文久3年4月に15人でスタートした壬生浪士組は、6月には52人までになりました。
5月の第一次隊士募集で「島田魁」が入隊しています。
身長182㎝、体重150㎏の巨漢でした。
隊士の人数が増えるにあたり、壬生浪士組は組織化を行っていきます。
- 局長:芹沢鴨・近藤勇・新見錦
- 副長:土方歳三・山南敬助
- 勘定方:平間重助
残りの残留浪士組メンバーは全員が副長助勤となりす。
今回はこの辺りで、次回は「新選組誕生」です。