浪士組入京
浪士組は江戸を出発してから16日目の文久3年2月23日、百三十三里を歩き入京を果たします。
入京した浪士組は壬生村(現在の中京区)の前川荘司方を本陣として民家や寺院など、10ヵ所に分宿しました。
近藤勇の組が宿にしたのが八木源之丞方の離れ座敷でした。
当時の壬生は見渡す限りの「田園地帯・畑・沼地」で夜は真っ暗だったそうです。
これを見た近藤勇は、
と、都への憧れが裏切られた思いだったそうです。
浪士組が壬生に入ったその夜。
清河八郎は新徳寺(中京区)に浪士全員を集めて、浪士組の真の目的は将軍警護ではなく
「攘夷の断行」であると宣言し、これを朝廷に建言してしまいます。
清河との対立
問題が起きたのは6日後の2月29日。
将軍警護のために結成されたはずの浪士組。そのリーダーの清河が突如「尊王攘夷あるのみ!」と勤王討幕論を説き始めたのです。
清河八郎は浪士組を「攘夷の先兵」とするため、浪士組はただちに江戸に帰還すると宣言します。
浪士組の大半はどっちでもよかったのです「尊王」も「攘夷」もない職に就ければいいといった「烏合の衆」でした。
しかし、これに反発したのが芹沢派と近藤派の計13人でした。
■近藤派
- 近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎。
■芹沢派
- 芹沢鴨、新見錦、平間重助、平山五郎、野口健司。
彼らは初志貫徹し、前年から京都に駐在してる会津藩主・松平容保に渡りをつけ、なんとか「京都守護職預かり」として3月10日に京都残留を認められます。
武士に憧れ、幕府への忠誠心のもと浪士組に参加し、京まで来た近藤勇たち。
会津藩から市中見廻りの任務を与えられると、
と、屯所で喜んだそうです。
清河八郎暗殺
江戸に戻った清河八郎は幕府に監視される中、攘夷を計画します。
しかし、同年4月13日に江戸麻布一の橋(港区)で幕府の刺客によって暗殺されてしまいます。
清河を暗殺した幕府の刺客は、佐々木只三郎ら6名。
※佐々木只三郎はのちに「京都見廻組」の与頭となり、新選組とも関りを持つことになる。
清河の死後、浪士組は庄内藩の配下となり「新徴組」として江戸市中警備を行うことになるのでした。
今回はこの辺りで、次回は「壬生浪士組誕生」です。