浪士組の結成
嘉永6年に黒船来航して以来、攘夷を主張する朝廷と溝が生じていた幕府は、文久3年2月13日公武合体のため第14代将軍徳川家茂は京都へ出立します。
しかし京都では薩摩藩の攘夷過激派による「寺田屋騒動」、反幕府派による「天誅」などが行われ治安が悪化していました。
そこで幕府は将軍上洛前に過激派を取り締ませる目的で、関東を中心に浪士を募集し結成させたのが「浪士組」です。
この計画を考えたのが、庄内浪士で攘夷過激派の「清河八郎」です。
清河は文久2年8月、同志で旗本の山岡鉄太郎(鉄舟)の協力で講武所剣術教授方の松平主税助を通じて「浪士鎮定の策」を幕府に献言させ、12月には浪士組結成を成し遂げます。
浪士組には、のちに新選組の主要人物となる水戸脱藩「芹沢鴨」や、江戸試衛館「近藤勇」も名を連ねていました。
天然理心流・試衛館メンバー
江戸市谷甲良屋敷(現在の東京都新宿区市谷柳町)にあった道場「試衛館」の天然理心流4代目宗家となっていた近藤勇。
このころ近藤勇の門人には、のちに新選組幹部となる土方歳三、沖田総司、山南敬介、井上源三郎、永倉新八、藤堂平助、原田左之助などがおり、幕府の浪士募集を知り「尽忠報国」の志の元、浪士組参加を決断するのでした。
伝通院に集結し上京
文久3年2月浪士組参加者は伝通院に召集された。その数は実に234人。
集まった浪士の中には脱藩者・剣士・農民・ヤクザ・儒者など、江戸の食い詰め者が多かったとされています。
当初は浪士1人に手当金50両を予算として組んでいたが、人数が5倍近くになってしまたため急遽手当金を1人10両に減額した。
浪士組は1番組から7番組の小隊に編成され、2月8日旗本の鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)を浪士取扱とし、中山道を京都に向けて出発した。
有名なエピソードは事実ではなかった!?
大河ドラマ「新選組!」でも描かれた道中に起きたエピソードで、先番宿割を務めていた近藤勇が本庄宿での芹沢鴨の組の宿を取り忘れ、芹沢がこれに激怒し篝火を焚いて近藤が謝るという事件がありますが、これは事実ではないようです。(このエピソードはのちに永倉新八が伝えたもの)
-終-
今回はこの辺りで、次回は「浪士組」京都に到着!