新選組の新事実!隊服はダンダラ羽織ではなく「黒装束」だった!?



新選組の隊服は黒装束だった!?

新選組=浅葱色の羽織」と言っていいほどにイメージが定着している隊服ですが、実は1年程しか着用されていなかったという話を別記事でしました。

【新選組】浅葱色のダンダラ羽織の真実。本当は全く着用されていなかった!

2018.07.13

池田屋事件が起きた頃には既に誰も着ていなかったとされる浅葱色のダンダラ羽織ですが、それ以降の新選組には隊服はなかったのか?ちょっと調べてみました。



大村藩・渡辺昇が鍵を握る

新選組の隊服について、大村藩士の「渡辺昇」という人物がある記述を残しています。

まず渡辺昇とは、江戸の「神道無念流道場・練兵館」で桂小五郎の後に塾頭を務め、坂本龍馬と「薩長同盟」の成立にも関わっている人物です。

また、江戸では天然理心流四代目宗家となった頃の近藤勇とも交流があり、試衛館に「道場破り」が現れた際には助っ人として駆け付けるほどの関係だったようです。

しかし京都では新選組とは敵対関係にあり、新選組隊士を斬ったこともあったそうです。

ですが、幕府側の刺客が渡辺昇の命を狙っているという情報を得た近藤勇は、本人に密かに会って伝えていたらしいです。

立場が変わって敵同士になってしまいましたが、なんだか近藤さんの人柄を感じられる話ですね。


渡辺昇が残した記述

そんな渡辺昇が自伝にて、新選組の隊服について「ある記述」を残しています。

慶応3年(1867年)渡辺昇は京都市中にて、ある二人組に尾行されました。
その二人組は「黒装束」だったので「新選組」で間違いないというのです。

その記述が以下。

「黒子黒袴、問わずしてその新選組たるを知る」

1867年は伊東甲子太郎が御領衛士を結成して新選組を脱退し、徳川慶喜が大政奉還
そして油小路事件が起きた年です。

「問わずして」と書かれているので、この頃の京都では「黒装束=新選組」というイメージが出来上がっていたということです。

渡辺昇は大正2年(1913年)75歳まで生きました

今後はイメージが変わって「ひの新選組まつり」でも黒装束の集団がパレードする日が来るかも!?

たびノート📔~幕末~

柴隊士
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