【武田観柳斎】新選組五番隊組長の”栄光と転落”。同性愛者で一騒動!?



新選組五番隊組長・武田観柳斎


■武田観柳斎(?~1867年(慶応3年)6月22日)

  • 出身:出雲国能義群母里
  • 本名:福田広

母里藩の医者。
甲州流軍学を修めた後、江戸で「福島伝之助」の塾で学んでいました。

名字の武田は戦国武将「武田信玄」から取ったと言われています

武田観柳斎は京都で新選組に入隊するのですが、一説では試衛館時代の「近藤勇」とは既に江戸で出会っており面識があったのではないか?とも言われています。

新選組に入隊した正確な時期は不明で、1863年(文久3年)6月以降(冬頃)とされています。
(同年12月に切腹となった野口健司の埋葬をする「頼越人」として光緑寺の過去帳に記録が残っている)



武田観柳斎の功績

武田は甲州流軍学に加えて、文武に秀でていたため近藤勇に重用されていました。
(近藤は東下、広島出張などに武田を同行させている)

1864年(元治元年)6月5日に「古高俊太郎」を捕縛したのが一番の功績ではないでしょうか。
その後に起きた、池田屋事件にも出動しています。

第一次「行軍録」では六番の組頭となり、文学師範にもなっています。
壬生寺の境内で兵法の調練が行われていたのは有名ですが、これを指揮していたのが武田観柳斎です。

武田と言うと剣術の方ではあまり話題に出ませんが、池田屋事件では浪士を討ち取っていますし、京都の茶屋で金策を行った薩摩藩士と斬り合うなど、剣術面でも活躍していました。

同性愛者だった説

武田観柳斎は「同性愛者」であったと言われています。
対象となった相手は、新選組「隊中美男五人衆」の一人、美少年隊士「馬越三郎」です。

馬越にその毛は無かったのですが、武田は心底馬越を好いてしまったらしく、この件に関しては局長の近藤勇も頭を抱えていたそうです。

結局、土方歳三の案により馬越は新選組を除隊という形で解決となりました。
馬越からすればとんだ災難であったでしょう。


武田観柳斎の転落

甲州流軍学を武器に近藤勇に重用され、副長助勤、五・六番隊組長を歴任、文学師範と、新選組で軍師としての地位を築いた武田観柳斎ですが、ある事をきっかけにその地位は崩落していく事になります。

西洋の最新武器を備えだした薩摩・長州藩に対抗すべく、新選組でも当然ながら武器などの「洋式化」が進むことになりました。
すると観柳斎自慢の甲州流軍学は時代遅れで、もはや不要とされていまったのです。

第二次「行軍録」では軍奉行となった武田でしたが、慶応2年1月の広島再出張では同行から外されてしまいます。

次第に近藤からも距離を置かれるようになり隊内での居場所を徐々に失っていきました。

新選組脱退、粛清

この時期は丁度、伊東甲子太郎が「御領衛士」を結成し新選組分隊していた頃で、武田は御領衛士に加えてもらおうと伊東を頼ります。

しかし新選組と御領衛士は双方の隊士向かい入れを「禁止」と約束していた為、伊東は武田の入隊を拒絶します。

ドラマ・映画などでは武田は新選組から「脱走」したと描かれる事が多いですが、実際には脱走ではなく除隊しています。武田はきちんと近藤・土方に「除隊」を申し出ています。

新選組は一度入隊したら”最後”みたいなイメージが強いですが、ちゃんと除隊制度がありました

除隊が認められたとは言え、恐らく監視はされていた事でしょう。
武田は脱退後、薩摩藩と接触しようとするなど「反幕活動」の動きを見せたため、結局新選組に暗殺されてしまいます。

現場は京都(南区)の竹田街道「銭取橋(現在の勧進橋)」で、下手人は斎藤一か大石鍬次郎とされており、斬られた武田は即死だったそうです。

なお、武田は出生年が不明の為、死亡時の年齢が分かっていませんが恐らく30代前半だとされています。(写真なども一切残っていない)

大河ドラマ「新選組!」で武田観柳斎役を演じた八嶋智人さんの「長髪に眼鏡」のイメージが強すぎるのですが、「新選組物語」には「背が高く、常に坊主頭」であったと記されています。

たびノート📔~幕末~

柴隊士
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