【近藤勇】武士になる!田舎の百姓から幕臣旗本へ、新選組局長が駆け抜けた35年の生涯。



生まれは多摩の百姓

近藤勇

■天保5年(1834年)~慶応4年(1868年)4月25日。

武蔵国多摩郡上石原村の出身で幼名は勝五郎。

「三国志」が好きで棒で剣術の真似事などをしていたという。

口が大きく握りこぶしを口の中に楽に出し入れできたという

■家系

  • 父親:久次郎
  • 母親:ミネ
  • 長兄:音次郎
  • 次兄:粂蔵
  • 祖父:源次郎




天然理心流時代

嘉永元年(1848年)11月、天然理心流3代目宗家・近藤周助の試衛館道場に門入り。

翌年1849年6月には目録を授けられる。同年10月に近藤周助の養子となり島崎勝太と名を改めた。

 

万延元年(1860年)に一橋家家臣の松井八十五郎の長女「ツネ」と結婚。

文久元年(1861年)8月に天然理心流4代目宗家を継ぎ、文久2年には長女の「タマ」が生まれた。

浪士組に参加

試衛館道場を継ぎ、子供も生まれた近藤だったが、文久3年1月に幕府が募集した「浪士組」に参加。

2月には道場と妻子を残して試衛館の門人・食客とともに上京することとなる。

 

江戸に帰還するという浪士組の方針に反対し京に残留し京都守護職の松平容保預りで「壬生浪士組」を結成。

八月十八日の政変の出動などが評価され、会津藩から「新選組」の名を授かる。

新選組局長 近藤勇

壬生浪士組から新選組へ隊名を改めた近藤は、文久3年9月に芹沢鴨らを暗殺して水戸派を追放し隊を掌握。

元治元年(1864年)6月に起きた「池田屋事件」での活躍により新選組は高く評価され、近藤も脚光を浴びる。

ついに幕臣となる

慶応3年(1867年)6月、新選組は総員が幕臣に取り立てられ、近藤勇は旗本となった。

しかし翌年1月に鳥羽伏見の戦いが勃発し、旧幕軍は敗走。新選組も江戸へ退却することになる。

近藤は前年の12月18日に御陵衛士残党に銃で右肩を狙撃され鳥羽伏見の戦いには参加できなかった

試衛館以来の同志は土方歳三1人に

3月には新選組は甲陽鎮撫隊と名を変え、甲州勝沼で新政府軍と戦うも敗走。

4月2日、再起を図り下総流山に転陣していたところを新政府軍に包囲される。

 

近藤は武士らしく切腹をしようとするが土方歳三に押しとどめられて「大久保大和」の名で板橋の新政府軍総督府に出頭。

この頃には試衛館以来の仲間は、土方歳三ただ1人となっていた。

35年の人生に幕

しかし、新政府側にいた元新選組隊士で御陵衛士の生き残りである「加納鷲雄」に正体を見破られてしまう。

正体を見破られた近藤はろくに裁判も受けられず、4月25日板橋の「馬捨て場」で斬首の刑に処せられた。

享年35歳。

 

近藤勇の首は京都へ送られ、三条河原で晒し首となった。

その後、近藤の首は新選組隊士が取り戻したなど諸説あるが、その行方は今だに不明とされる。

近藤勇の墓は全国各地に存在する

たびノート📔~幕末~

柴隊士
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