【新選組】浅葱色のダンダラ羽織の真実。本当は全く着用されていなかった!



新選組の浅葱色のダンダラ羽織は多くの人々にとって鮮やかなイメージとして記憶されています。

しかし、この象徴的な羽織が実際に新選組によって広く着用された期間は想像以上に短いものでした。

映画やドラマで見るその鮮やかな色彩とデザインは、新選組の英雄的なイメージを強く印象づけるものですが、その実態はどのようなものだったのでしょうか?

本稿では、その短い着用期間、誕生の背景、そして隊内での評判に至るまで、羽織にまつわるさまざまな事実を解明します。

羽織が現存しない中で伝わる証言や記録を基に、新選組のダンダラ羽織が持つ歴史的真実を探ります。

本稿の要点
  1. 新選組のダンダラ羽織が着用された期間が短かった理由
  2. ダンダラ羽織のデザインと色が選ばれた意味
  3. 羽織の隊内での評判と、なぜ着用がやめられたのか
  4. 池田屋事件でダンダラ羽織が最後に目撃された経緯

新選組|浅葱色のダンダラ羽織の真実

  • 着用期間はごくわずかだった
  • 新選組のダンダラ羽織の誕生
  • 羽織は現存しておらず、写真も残っていない
  • 隊内の評判が悪かった
  • 池田屋事件時に隊服が目撃された経緯

着用期間はごくわずかだった

新選組と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、明るく鮮やかな浅葱色のダンダラ羽織です。

この特徴的な羽織は「テレビや映画、アニメ」でしばしば見られるため、新選組の強烈な象徴となっています。

浅葱色、つまり薄いブルーがかった緑色は新選組のメンバーを一際目立たせ、彼らのカリスマと英雄的なイメージを強調してきました。

しかし、実はこの象徴的な服装が新選組によって広く着用されていた期間は思ったよりもずっと短いんです。

詳しく調べてみると全盛期における新選組の活動の一部分に過ぎず、多くの場合は他の服装をしていたことが分かっています。

事実、新選組が浅葱色のダンダラ羽織を纏っていたのは、彼らの長い歴史の中でほんの一瞬だったのです

それにも関わらず、この短い期間に着用された羽織が今日に至るまで新選組のイメージを強く印象づけているのは、そのユニークな色とデザインが強烈な印象を与え、人々の心に深く刻まれたからでしょう。

この羽織が新選組を象徴するアイテムとして広く認識されるようになったのは、彼らの勇敢さや正義感を色と形で表現する文化的な影響力があるからかもしれません。

つまり、浅葱色のダンダラ羽織は新選組の活動期間全体を代表するわけではなく、彼らが身につけていた多くの服装の中の一つに過ぎません。

しかし、この短い期間に着用された服装が彼らの伝説を色濃く残し、今日まで私たちの記憶に生き続けているのです。

浅葱色=薄い藍色や水色(浅黄色とも書く)

新選組のダンダラ羽織の誕生

新選組の鮮やかな歴史の一ページを飾る「ダンダラ羽織」の誕生は1863年の春、京都にある大丸呉服店での一件から始まります。

当時の新選組はまだ新しい組織で、その創設から間もない時期でした。

この組織の副長である土方歳三は特別な羽織を注文することにしました。

彼が選んだのは「麻」という素材から作られる、軽くて動きやすい羽織でした。

そして、その羽織は鮮やかな浅葱色で染められていました。

そのデザインは、なんと日本の古い物語「忠臣蔵」に出てくる赤穂浪士の装束にインスピレーションを受けたものでした。

この物語は主君の仇を討つために命をかけた47人の忠実な侍たちの話です。

ダンダラという模様は、彼らの勇敢さと忠誠心を象徴するデザインとして取り入れられました。

この特別なデザインを選んだ背景には、新選組のリーダー近藤勇の深い尊敬の念があります。

近藤は赤穂浪士の物語に強く憧れており、彼らの精神を新選組のメンバーにも受け継がせたかったのです。

そのため、このダンダラ模様の羽織は新選組の象徴として、また彼らの団結と忠誠の精神を表すアイテムとして選ばれたのでした。

近藤勇が赤穂浪士に憧れていた為、このデザインになったとされる

羽織は現存しておらず、写真も残っていない

新選組の羽織については実際に残っているものがなく、その写真も一切見つかっていません。

つまり、実際はどんな見た目だったかを確かめる方法がありません。

この羽織には「白い山形」という模様がどこに入っていたのかが、長い間謎とされてきました。

この「白い山形」のことを「ダンダラ」と呼びますが、これが袖部分だけにあったのか、裾部分だけにあったのか、それとも袖と裾の両方にあったのか、はっきりとした答えが出ていませんでした。

八木為三郎が晩年に残した「新選組遺文」という記録によると、ダンダラ模様は袖と裾の両方にあったと証言しています。

しかし、八木為三郎がこの証言を残した時、彼はもう高齢で記憶が正確ではなかった可能性があります。

現在、最も信頼されている説は、このダンダラ模様が裾部分にはなく袖部分だけにあったというものです。

つまり、八木為三郎の記憶は間違っていたということになります。

この話は歴史上の人物や文化遺産に関する知識が時間とともにどのように変わっていくかを示す一例です。

隊内の評判が悪かった

実はこの隊服が最後に公に見られたのは、1864年の「池田屋事件」の際でした。

この出来事は新選組にとって大きな転機の一つですが、その時に既に隊服は着用されていなかったとの記録もあります。

ダンダラ羽織を隊服として導入してからわずか1年足らずで、隊員たちがこれを着るのをやめた理由はいくつかあります。

隊士A
さすがにこれは派手過ぎる…
隊士B
素材が安っぽくて恥ずかしい…

この様な感想があったようで、隊服の外見や品質に対する不満が隊員たちの間で広がっていました。

当時の新選組は資金的にも厳しい状況にあり、良質の生地で隊服を揃えることが難しかったのです。

結果として安価な生地で作られたダンダラ羽織は、隊員たちからあまり好評を得られなかったのです。

このような背景から隊員たちが次第にこの隊服を着るのを避けるようになり、最終的には全員が着用をやめてしまったと言われています。

特に池田屋事件の際には「出動した隊士はもう誰もその隊服を着ていなかった」と記されており、その後隊服は完全に廃止されたことになります。

このエピソードは、新選組の内部状況や当時の生活の厳しさを物語っています。

池田屋事件時に隊服が目撃された経緯

池田屋事件の後、新選組の隊員たちは大きな成功を収め英雄として迎えられました。

激闘を終えた隊員たちが戦いから戻った際に、彼らを出迎えた仲間たち(留守番役)が特別な服、つまり「ダンダラ羽織の隊服」を着て敬意を表して出迎えたのです。

この「出迎え」の場面が、その隊服が目撃された最後の瞬間として記録に残っているのです。

この出来事は新選組の団結力と互いへの敬意を象徴するものでした。

隊員たちが戦いから無事に戻ったことを祝い、同時に彼らの勇気を讃えるために、留守を守っていた隊員たちが隊服を身につけたのです。

この敬意の表し方は、当時の武士の間での礼儀や尊敬の表現として重要な意味を持っていました。

そして、この瞬間が新選組隊員たちの隊服が公に目撃された最後の場面として、歴史に記録されています。

結び:新選組のダンダラ羽織の真実を解説

要点をまとめます。

  • 新選組のダンダラ羽織は着用期間が非常に短かった
  • 浅葱色のダンダラ羽織はテレビや映画でよく見られ、新選組の象徴とされる
  • 実際には新選組は様々な服装をしており、ダンダラ羽織はその一部に過ぎない
  • 羽織のデザインは「忠臣蔵」に登場する赤穂浪士の装束にインスピレーションを受けている
  • 羽織は現存せず、その詳細なデザインは不明である
  • 「白い山形」の模様が入っていた部分については諸説あり、袖部分だけにあったという説が有力
  • 羽織の隊内での評判は悪く、素材が安っぽいとの声も
  • 池田屋事件の際、隊員は既にこの羽織を着用していなかった可能性がある
  • 隊員たちが隊服を着るのをやめた理由には、外見や品質への不満があった
  • 池田屋事件後に新選組の英雄としての地位が確立された
  • 羽織は特に池田屋事件の後、公にはほとんど目撃されていない
  • 浅葱色は新選組のメンバーを際立たせる色として選ばれた
  • 羽織のデザイン選択には近藤勇の赤穂浪士への憧れが影響している
  • 羽織を着用したのは新選組の団結と忠誠の精神を表すため
  • 隊服の廃止は新選組内部の経済的な厳しさを反映している

新選組の隊服については以下の記事もどうぞ!⇩

新選組の新事実!隊服はダンダラ羽織ではなく「黒装束」だった!?

2018.10.29

たびノート📔~幕末~

柴隊士
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