新選組筆頭局長

▪芹沢鴨:天保3年(1832年)〜文久3年(1863年)9月16日
常陸国行方郡出身で水戸藩郷士・芹沢貞幹の三男として生まれる。
「鴨」という名前の由来は、若い頃に通っていた玉造郷校の近くにある神社の鴨の宮から取ったとされる。
浪士組に加入
文久2年末から文久3年早々に江戸に出た芹沢は幕府が募集していた浪士組に加入します。
浪士組で3番の小頭に任命された芹沢だが、道中の本庄宿において先番宿割が芹沢らの宿を取り忘れるという不手際が起こる。
これに激怒した芹沢は宿内に火を焚くなど、性格は乱暴で短慮であった。
会津藩が書き残した日記には、
「芹沢は勇気はあるが「狂暴」で隊士が自分の気にそぐわないことをすると「死ぬほど打擲いたし候事」
と記している。
打擲(ちょうちゃく):人を叩く、殴ること
様々な事件を起こす
浪士組の江戸帰還騒動で、近藤勇らと共に京都に残留した芹沢は壬生浪士組局長、その後に新選組筆頭局長となる。
- 大阪力士乱闘事件
- 大和屋焼討ち事件
- 島原角屋に営業停止を命じる
- 大阪の遊廓で芸妓と仲居の髷を切り捨てる
など。
近藤派に粛清される
数々の暴挙を重ねた芹沢は自らの首を絞める結果となった。
文久3年9月16日、島原角屋で総会が開かれた後、壬生の屯所・八木邸で暗殺され、壬生共同墓地に埋葬された。
享年32歳。
現在壬生寺にある墓碑は3基目であり、2基目のものとは異なり、最初の墓碑を再現したもの
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