新選組の鬼副長
■土方歳三:天保6年(1835年)~明治2年(1869年)5月11日。
農民の土方隼人と恵津の末っ子として武蔵国多摩郡石田村に生まれる。
17歳頃に石田散薬という家伝薬を売りながら剣術を学んだとされる。
安政4年(1857年)に近藤周助の門人となり、2年後の安政6年に正式入門となったことが天然理心流の神文帳に記録されています。
近藤勇と共に浪士組に参加
文久3年2月には近藤勇ら試衛館の門人・食客らと共に幕府よる浪士組募集に応じて上京。
その後、壬生浪士組・新選組で副長に就任して隊を牽引します。
局中法度書
土方は寄せ集めの烏合の衆である新選組を統率するため「局中法度書」を作り、これに背く者は切腹を申し付けるという厳しい隊規を設けます。
また、法度に背いた隊士の処刑が行われたのが近藤勇の留守中であることが多かったことから、土方が局中法度書を運用していたのがわかる。
これが鬼の副長と言われた所以とされる。
鳥羽伏見の戦いで新選組を指揮
慶応4年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦いで、土方は右肩を負傷していた近藤勇に代わって新選組を指揮しますが、最新式の銃火器を装備した新政府軍に惨敗。
敗れた土方たち新選組は旧幕軍と共に江戸へ退却します。
旧幕府脱走軍に参加
江戸に退却後、甲陽鎮撫隊での敗走。さらに流山で近藤を失った土方は、下総鴻之台に集結していた大鳥圭介率いる旧幕府脱走軍に単身で加わります。
前軍の参謀となった土方は「宇都宮の戦い」で宇都宮城を見事に落城させます。
この戦いの中で、あまりの激戦に恐れをなして逃げ出そうとした味方の兵士を「退却するものは誰でもこうだ」と斬り捨て、見方を鼓舞し”鬼副長健在”であることを見せつけました。
しかし後日、斬り捨てた味方兵を気の毒に思い「どうかこの金であの一兵卒の墓石を建ててくれ」と託しています。
この頃から(近藤勇亡き後)土方歳三は人が変わったようになったと言われています。
最期の地、箱館へ
宇都宮戦争・会津戦争を経て、土方は仙台で榎本武揚の旧幕府海軍に合流。
明治元年(1868年)10月に箱館(蝦夷地)へと渡ります。
役職を決める選挙で、土方は陸軍奉行並に就任します。
明治2年4月、陸軍奉行並として陸戦を指揮した土方は、大軍で押し寄せてきた新政府軍の攻撃を2度にわたって食い止め、退却させます。
勝利した土方は兵士たちに酒をふるまって健闘を称えました。
そこには京都で鬼と呼ばれた面影は、もはや無かったと言います。
翌5月11日、ついに新政府軍は箱館総攻撃を開始します。
弁天台場で「新選組」が孤立していると知らせを受けると、かつての仲間を救出するため土方は約70人の兵を率いて出陣します。
弁天台場へ向かう途中、一本木関門で退却してくる味方に遭遇します。
土方は退却しようとした兵士たちを再び奮起させ攻撃に転じさせた直後、馬上にいた土方の腹部に一発の銃弾が貫きました。
落馬した土方は、一言も発することなく絶命したと言います。
近藤勇と同じ、35年の人生でした。
土方歳三は箱館で戦死していない説
実は土方歳三は函館戦争で死んでいないのでは?
と言う説があります。
何故このような説があるかと言うと、
- 土方歳三の遺体は未だに見つかっていない(事実)
陸軍奉行並で兵士からの信頼も厚かったであろう土方の遺体が、そのまま放置されてどっかに行ってしまった何て事があるでしょうか? - 旧幕軍の幹部で戦死したのは土方歳三だけ
幹部で戦死したのはたった一人だけと言うのも、余りにも不自然。
仮に新政府軍に降伏しても、新選組副長・土方歳三の処刑は免れなかったでしょう。
(※近藤勇がろくに裁判もされずに斬首となったように)
そこで、榎本武揚などの計らいで土方は戦死したことにして、降伏前に密かに函館から脱出させたのでは?
と言われているのがこの説です。
■辞世の句
【たとひ身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂は 東の君や守らん】