伊東甲子太郎の弟:鈴木三樹三郎の生涯と功績
新選組は、池田屋事件や禁門の変など、幕末の京都で活躍した武装集団です。近藤勇や土方歳三など、多くの名剣士がこの組織から生まれました。
しかし、その中には名前があまり知られていない隊士も多く存在します。今回は、その中でも特に注目すべき人物、鈴木三樹三郎に焦点を当ててみましょう。
鈴木三樹三郎の出自と家族
鈴木三樹三郎(1837-1919)は、常陸国志筑藩士・鈴木武明の次男として生まれました。彼の兄は、有名な新選組隊士、伊東甲子太郎です。
三樹三郎は、江戸深川の伊東道場で剣術を学びました。兄が新選組に参加する際、三樹三郎も京都に同行しました。彼は名前を何度も変えており、三木荒次郎、三木三郎などとも呼ばれていました。
新選組での役割と性格
新選組において、三樹三郎は副長助勤や9番隊組長などを務めました。彼は穏和な性格で、漢学にも精通していたとされています。
そのため、隊内外での評価も高く、特に知的な一面が評価されていました。彼は黒羽二重を好むなど、粋な通人としても知られています。
逸話:大坂夏祭りとの関わり
将軍家茂の上洛に伴い、大坂天満宮など5社が大坂夏祭りの御輿順行を中止しようとした際、三樹三郎が代表者と対応しました。
彼は「祭りは盛大にやられた方がよろしい」と提案し、その対応が賞賛されました。
兄・伊東甲子太郎との関係
後に、兄・伊東甲子太郎が新選組から独立して御陵衛士(高台寺党)になったとき、三樹三郎も彼に従いました。
特に注目すべきは、1867年11月18日の「油小路の決闘」で、兄が新選組によって暗殺された後、三樹三郎は仲間と共にその遺体を回収しました。
後年と遺産
三樹三郎は、明治維新後に軍曹となり、その後は警察や司法にも関わりました。彼は山形県鶴岡警察や酒田警察署長を歴任し、最終的には茨城県石岡町で隠棲しました。
1919年7月11日に83歳で亡くなりました。
永倉新八との再会
明治維新後、三樹三郎は新選組の永倉新八と東京・両国橋で再会しています。永倉はその後、松前藩に帰参していました。
二人は挨拶を交わしましたが、三樹三郎はその後、永倉を討とうとしたものの、成功しなかったそうです。
結論:新選組の多面性を象徴する一人
鈴木三樹三郎は、新選組の中でも特に多面的な人物でした。彼の生涯は、新選組が単なる武力組織ではなく、多様な人物が集まった複雑な集団であったことを示しています。
三樹三郎のような知られざる英雄たちの存在が、新選組の真の姿を明らかにする鍵となるでしょう。