新選組最強は誰か
最強の剣客集団と言われた新選組ですが、その中でも一体だれが一番強かったのでしょうか。
天然理心流宗家4代目の近藤勇や、神道無念流の芹沢鴨など達人が多くいる中でも、現存する当時の資料と証言では以下の3人の名前が上げられています。
- 「沖田総司」
- 「永倉新八」
- 「斎藤一」
この3人について、残された資料と証言を見ていきましょう。
沖田総司
新選組が屯所としていた西本願寺の寺侍・西村兼文は沖田総司について、自著の「壬生浪士始末記」にこう記しています。
隊中第一等の剣客なり
斎藤一
2人目は斎藤一。
同じく西村兼文が壬生浪士始末記で、斎藤一について記しています。
斎藤は局中一、二の剣客にて
永倉新八
3人目は永倉新八です。
永倉新八に関しては、初期に新選組が屯所とした八木邸の八木為三郎が「新選組遺文」にて永倉について語っています。
隊中でも一、二の遣い手
新選組隊士の証言
西村兼文と八木為三郎は外から見た評価になるわけですが、隊内からの評価も残されています。
元新選組隊士で、伊藤甲子太郎と共に御陵衛士に参加した「阿部十郎」の証言です。
阿部十郎は油小路事件では難を逃れ、鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩に属しています。(のちに赤報隊にも加わっている)
戊辰戦争を戦いぬき、明治40年(1907年)まで生きました。
享年71歳。
その阿部十郎が明治30年代の「史談会速記録」で、当時の貴重な談話を残しています。
もとより私は近藤だけの腕がないので、撃剣におきましては、実際につかったら近藤に一本もあたらないぐらい
さらに、沖田・斎藤・永倉につても語っています。
沖田総司、これがまあ近藤の一弟子で、なかなかよくつかいました。
その次は斎藤一と申します。
それからこれは派が違いまするけれども、永倉新八という者がおりました。この者は沖田よりはちと稽古が進んでおりました
阿部十郎は沖田の次に斎藤、沖田より稽古が進んでいた永倉と語っているので、
- 永倉新八
- 沖田総司
- 斎藤一
と、順番ではこうなります。
もちろん阿部十郎一人による評価ですが、元新選組隊士が残したとても貴重な証言です。