人斬り:新選組の大石鍬次郎
新選組は、近藤勇や土方歳三といった名高い剣士を輩出した一方で、多くの隊士が名もなく命を落としています。
この記事では、その中でも特に注目すべき一人、大石鍬次郎に焦点を当て、彼の人生と活躍に迫ります。
一流の出自、しかし波乱に満ちた青年期
大石鍬次郎(1838-1870)は、江戸で一橋家家臣・大石捨二郎の長男として生まれました。彼は、多くの新選組隊士とは異なり、エリートの家庭に生まれました。
しかし、若い頃に女性とのトラブルが原因で武士の身分を捨て、大工として生計を立てるようになりました。
偶然の出会いが運命を変える
大石は、土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の邸宅建設に関わりました。そこで、道場での稽古中に近藤勇と出会い、試衛館の門人となることで、新選組への道が開かれました。
幕末の激動期に新選組へ
1864年10月、大石は新選組に加入しました。この年は、池田屋事件や禁門の変が起き、新選組の名声が高まる一方で、幕府と長州藩が衝突するなど、日本全体が混乱していました。
信頼された隊士、そして武闘派の誕生
近藤からの信頼は厚く、大石は1番組に所属した後、諸士調役兼監察という役職に就きました。
冷静かつ執念深い性格で、小野派一刀流と天然理心流の二つの剣術を修得していた大石は、新選組でも特に「武闘派」として知られ、多くの戦闘でその力を発揮しました。
血塗られた戦歴
大石は、三条大橋高札事件や天満屋騒動、油小路暗殺事件など、多くの血戦に参加しました。特に油小路の暗殺では、敵方の遺体を引き取りに来た者たちまで惨殺し、多くの敵を作りました。
家庭人としての一面
驚くべきことに、大石は家庭人でもありました。新選組に入隊する前に結婚し、一児の父となっていました。非番の日には、家族と共に穏やかな時間を過ごしていたと言われています。
最後の戦いと処刑
大石は、甲陽鎮撫隊として甲州に進軍しましたが、官軍に敗れて江戸に逃げ帰りました。その後、明治政府に捕らえられ、坂本龍馬暗殺の容疑で取り調べを受け、最終的には処刑されました。
彼の生涯は32年で幕を閉じました。
結論:多面的な人物、大石鍬次郎
大石鍬次郎は、新選組の中でも特に多面的な人物でした。武闘派としての一面、家庭人としての一面、そして多くの戦闘と血塗られた歴史を持つ彼の生涯は、新選組の多様な隊士たちの中でも際立っています。
この記事が、新選組とその「影の英雄」である大石鍬次郎について、新たな視点を提供できたら幸いです。