壬生城の戦い
慶応4年(1869年)4月19日に宇都宮城での戦いに勝利した旧幕軍は、宇都宮から15㎞ほど南西にある「壬生城」攻略を決定します。
4月22日に新政府軍と壬生城で戦闘を開始します。
この戦いには、近藤勇との意見の対立から新選組を離れた永倉新八率いる「靖共隊」も旧幕軍に加わっており、永倉新八は右腕を負傷しつつも戦いました。
しかし結果は永倉の奮戦も虚しく、旧幕軍は沢山の犠牲を出して敗走となりました。
ここで土方歳三と永倉新八の再会があったかどうかは定かではありません。
なお永倉と共に新選組を離脱した原田左之助も靖共隊に加わっていましたが、この戦いの前に脱退しています。
原田の脱退は捕らわれた近藤勇を救出するためとの説がある
京都の壬生との関連性
同じ壬生という地名なので、新選組ファンには繋がりが気になるところですよね。
壬生城近くには壬生寺もありますが、京都の壬生とは一切関連性はないようです。
土塁の一部が現存
壬生藩は戊辰戦争では官軍側につき、壬生城は第2次宇都宮城攻城戦の拠点となりました。
明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となり、建物・土塁・堀などは殆ど取り壊されました。
城址公園として整備
現在は本丸跡が城址公園として整備されており、土塁・石垣の一部が復元されました。
また、公園内には資料館や図書館などの公共施設もあります。
アクセス
住所:栃木県壬生町本丸1丁目8−33
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