滝野川・近藤勇墓所
東京都北区滝野川にある「近藤勇墓所」に行ってきました。
「JR板橋駅東口」を出れば目に入るの場所なので見つかりやすいです。
新政府軍に投降した近藤勇は板橋刑場で斬首の刑となり、首は京都へ運ばれて三条河原で晒し首となりました。
このお墓には、首から下の胴体が埋葬されていると言われています。
永倉新八が建立
このお墓は「永倉新八」が明治9年に医師の「松本良純」らの助けを借りて建てたもの。
近藤勇の墓の他、土方歳三の墓、そして永倉自身の墓と新選組顕彰碑があります。
顕彰碑:功績などを称えるため広く世間に知らしめるための石碑
松本良純:幕府軍医で新選組隊士の診療を行っており、近藤らとも親交があった
決別した近藤と永倉
鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ退却した新選組は「甲陽鎮撫隊」として甲州勝沼で新政府軍と戦いますが敗戦。
いわゆる「甲州勝沼の戦い」です。
敗戦後、近藤と永倉は意見の対立から袂を分かつ(喧嘩別れ)ことになります。
これが、試衛館以来行動を共にしてきた二人の永遠の別れとなってしまいました。
原田左之助も永倉と共に新選組を脱退、二人はその後「靖兵隊」を結成(靖共隊ともいう)
近藤の汚名返上のため尽力
近藤と決別した永倉ですが、戊辰戦争終結後には逆賊の汚名を着せれていた近藤勇、そして新選組の名誉回復の為に尽力します。
近藤勇の最期の地となった板橋に、近藤勇だけではなく土方の墓、さらに殉死した隊士の供養塔を建立するために奔走したのです。
名誉回復は生き残った者の務めだったのでしょう
遺族に託した永倉新八の想い
近藤勇、土方歳三の墓は明治9年(1876年)に建立。
その後、永倉新八は北海道の小樽で暮らし1915年に75歳で亡くなります。
永倉新八は晩年、
「自分が死んだら近藤、土方のそばに墓を建てて分骨してほしい」
と家族に遺言しています。
板橋のお墓には遺骨の一部と遺髪が埋葬されている
戊辰戦争終結から45年。
新選組の仲間たちとの絆や思いが消えることはなかったのですね。
滝野川・近藤勇の墓へのアクセス
- 住所:東京都北区滝野川7-8-10
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