幕末の勇女「中野竹子」会津の美しき女性戦士の最期と辞世の句



(出典:福島県

幕末、日本の歴史の中で最も激動の時代を迎えた会津。その中で一際輝く存在が「中野竹子」でした。

彼女はただの美しい女性ではなく、武勇にも秀でた女性戦士として多くの人々に語り継がれています。

この記事では、中野竹子の生涯とその伝説に迫ります。美しさと勇気を兼ね備えた彼女の物語は、今も多くの心を捉えて離さない。

会津の歴史に刻まれた彼女の足跡を辿りながら、その魅力と功績を紐解いていきましょう。

記事のポイント
  1. 中野竹子が幕末の会津でどのような特別な存在であったか
  2. 彼女の美しさと武勇の背景や評価
  3. 竹子が地域の教育や武道にどのように関与していたか
  4. 娘子軍としての彼女の勇敢な戦いとその運命

美と勇を兼ね備えた中野竹子

  • 美しさと武勇の象徴:中野竹子
  • 坂下の教育者としての役割
  • 風呂場のぞき見事件
  • 涙橋での悲劇
  • 娘子軍の運命
  • 中野竹子 辞世の句

美しさと武勇の象徴:中野竹子

中野竹子は、会津藩で最も美しいと称される女性でした。彼女の写真は法界寺に所蔵されています。後に描かれた肖像画からも、彼女の凛とした美しさが伝わってきます。

坂下の教育者としての役割

竹子は会津の坂下地区で、武道の達人・赤岡大助のもとで生活していました。彼女は地域の子供たちに読み書きを教える一方、女の子たちには薙刀の技を伝授していました。

その美しさから、多くの若者たちが彼女を遠くから見守ってたと言われています。

風呂場のぞき見事件

竹子は赤岡家の風呂での入浴を好んでいたと言われています。しかし、彼女の美しさに魅かれた若者たちの中には、彼女の入浴をのぞき見しようとする者もいました。

竹子はそのような行為を許さず、薙刀を手に取り追いかけては、のぞき見を試みる若者たちを追い払っていたそうです。

会津の勇敢な女性戦士:中野竹子の最期

涙橋での悲劇

慶応4年、新政府軍が会津城下に迫る中、竹子は娘子軍として戦場に立ちました。彼女たちは涙橋にて勇敢に戦ったとされています。

敵の指揮官が彼女たちが女性である事に気づき、生け捕りを試みる中、竹子は頭部に銃弾を受けて倒れました。彼女の死の詳細には諸説がありますが、彼女の勇気と献身は疑いようのないものでした。

明治元年8月25日(1868年10月10日)没。享年は18,20,22歳と諸説あり。

中野竹子は、福島県河沼郡会津坂下町の法界寺に埋葬されています。

娘子軍の運命

竹子の死後、娘子軍の残りのメンバーは鶴ヶ城に撤退しました。彼女たちの中で竹子だけが戦死したことから、彼女の勇敢さと献身がいかに特別であったかが伺えます。

軍といっても、娘子軍は「竹子、母こう、妹の優子、依田まき子、依田菊子、岡村すま子」のたった6人でした。

中野竹子 辞世の句

中野竹子の辞世の句

「ものゝふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも 」

竹子は、この句を収めた短冊を薙刀に結び付けて戦っていたとされています。後にこの薙刀は坂下町の骨董店から出てきて、広瀬村長の生江家が所蔵していました。

現在は法界寺に寄贈され保管されています。柄の長さは「五尺三寸、刃の長さ一尺五寸」で、切先が少し欠けています。

まとめ:会津の伝説の女性戦士|中野竹子

中野竹子は、美しさと武勇に秀でた特別な存在でした。彼女の勇気と献身は、今も多くの人々に語り継がれています。

幕末の会津に、このような「強く、勇敢で、美しい」女性がいたことを、私たちも忘れてはならないでしょう。

記事のポイントをまとめます。

  1. 幕末の会津に特別な女性・中野竹子が存在
  2. 美しさと武勇の象徴として知られる
  3. 会津藩で最も美しいと称される女性
  4. 坂下地区で武道の達人・赤岡大助のもとで生活
  5. 地域の子供たちに読み書きを教え、女の子に薙刀の技を伝授
  6. 赤岡家の風呂での入浴を好むが、のぞき見を試みる若者たちを追い払う
  7. 慶応4年、新政府軍との戦闘で娘子軍として戦場に立つ
  8. 涙橋での戦闘で銃弾に倒れる
  9. 娘子軍の中で竹子だけが戦死
  10. 竹子の勇気と献身は疑いようのないもの
  11. 美しさと武勇に秀でた特別な存在として語り継がれる

たびノート📔~幕末~

柴隊士
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