【幕末の内争】新選組と御陵衛士の血戦の真相

新選組の二面性

新選組は幕末の京都で治安維持に努めた特別な警察組織であり、その団結力は伝説的です。しかし、その裏側では規律を破る者や不満を持つ隊士に対しては厳しい粛清が行われていました。

この記事では、そのような一事件を詳しく解説します。

伊東甲子太郎の暗殺とその後の動き

1867年11月18日の夜、新選組は油小路通で伊東甲子太郎を暗殺し、その遺体を七条通との交差点に運びました。

その後、隊の馬丁を町の役人に変装させ、御陵衛士の拠点である月真院に急行させました。目的は伊東の死体を使って御陵衛士をおびき寄せ、襲撃する計画でした。

御陵衛士の反撃

月真院にいた御陵衛士は8人。彼らは急いで現場に向かいましたが、新選組の隊士によって襲撃されました。

特に藤堂平助は新選組隊士によって斬られ、命を落としました。他の御陵衛士も抵抗しましたが、ほとんどが逃げ出しました。

激闘の余波

新選組の服部武雄は二刀流で戦いましたが、最終的には敗れました。一方で、逃げた御陵衛士は伏見の薩摩藩邸で匿われました。新選組自体も、後に伏見奉行所に移動しました。

逃走と再会

阿部十郎と内海次郎は事件当時は不在でしたが、後に薩摩藩邸で合流しました。彼らは武具を購入し、新選組の近藤勇を襲撃する計画を立てました。

近藤勇の危機とその後

阿部らは近藤を襲撃しましたが、近藤は何とか逃げ切りました。この事件が大坂に伝わると、徳川慶喜は使者を送り見舞金が贈られました。

近藤はその後、大坂で鳥羽・伏見の戦いの敗報を聞きました。

結論:運命の糸はどこへ

御陵衛士の多くは、新選組の近藤や土方とは古い仲間でした。しかし、油小路での事件は、その関係に決定的な影を落としました。このようにして、幕末の京都は多くの英雄と悲劇を生んだのです。

この記事が、新選組と御陵衛士、そして幕末の京都における複雑な人間関係と出来事について、新たな視点を提供できたなら幸いです。



たびノート📔~幕末~

柴隊士
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