
一般的な認識とは異なる新選組の死者数
新選組が京都で活動していた5年間で、敵によって命を落とした隊士がどれぐらいいるか知っているでしょうか?
実はたったの「7人」です。大多数の方がたった7人だけ?と思ったことでしょう。これは、新選組が剣術に優れた者たちで構成された最強の剣客集団だったため、そう考えると理解できる数字かもしれません。
しかし、この数字だけを見て新選組の人的損害が少なかったと判断するのは早計です。実際には、敵よりも味方によって命を落とした隊士が多かったのです。
この記事では、身内によって命を落とした隊士とその数について深掘りしていきます。
局中法度:隊規違反による死者

新選組には「局中法度」と呼ばれる厳格な隊規が存在していたことは周知の事実です。この隊規は、「士道に背くこと」「局を脱すること」などを禁じ、違反した者には切腹が命じられるというものでした。
この局中法度の隊規に違反して命を落とした隊士は、実に「16人」にも及びます。この時点で5年間の戦死者数を上回ってしまっていますね。
局中法度で特に有名なのは新選組総長であった山南敬助が、局長・近藤勇との意見の不一致から脱走し、後に捕らえられて切腹させられた事例でしょう。
また、施山多喜人と石川三郎は、京都の商家の妻女と不適切な関係を持ち、士道に反する行為として切腹させられています。
その他、有名どころでは五番隊組長の武田観柳斎、勘定方をつとめていた河合耆三郎あたりでしょうか。
局中法度によって命を落とした隊士16人
- 野口健司 文久3年12月27日
- 葛山武八郎 元治元年9月6日
- 山南敬助 慶応元年2月23日
- 大谷良輔 慶応元年3月3日
- 施山多喜人 慶応元年6月21日
- 石川三郎 慶応元年6月21日
- 佐野牧太 慶応元年7月25日
- 細井鹿之助 慶応元年7月頃
- 川島勝司 慶応元年7月頃
- 河合耆三郎 慶応2年2月12日
- 柴田彦三郎 慶応2年6月23日
- 酒井兵庫 慶応2年10月以降
- 田内知 慶応3年1月10日
- 田中寅三 慶応3年4月15日
- 武田観柳斎 慶応3年6月22日
- 浅野薫 慶応3年同月頃
※時系列順
内部抗争による死者

局中法度による死者が16人である一方、隊規違反意外の「内部抗争」によって命を落とした隊士はさらに多く、その数は「18人」にも上っています。
特に有名なのは、芹沢鴨一派と伊東甲子太郎一派の粛清です。これらの事例から新選組内部での人間関係がいかに厳格で緊迫していたかが伺えます。
内部抗争によって命を落とした隊士18人
- 殿内義雄 文久3年3月25日
- 家里次郎 文久3年4月24日
- 佐伯又三郎 文久3年8月10日
- 新見錦 文久3年9月某日
- 芹沢鴨 文久3年9月16日
- 平山五郎 文久3年9月16日
- 御倉伊勢武 文久3年9月26日
- 荒木田左馬之介 文久3年9月26日
- 楠小十郎 文久3年9月26日
- 佐野七五三之助 慶応3年6月14日
- 茨木司 慶応3年6月14日
- 富川十郎 慶応3年6月14日
- 中村五郎 慶応3年6月14日
- 伊東甲子太郎 慶応3年11月18日
- 藤堂平助 慶応3年11月18日
- 服部武雄 慶応3年11月18日
- 毛内有之助 慶応3年11月18日
- 小林桂之介 慶応3年12月16日
※時系列順
驚くべき事実:味方による死者数
隊規違反と内部抗争を合計すると、味方によって命を落とした隊士は34人となります。これは、敵によって命を落とした7人の約5倍の数です。
さらに、死因が不明な者も含めれば、この数字はさらに高くなる可能性があります。
総括:新選組の内部事情の厳しさ
新選組が敵(不貞浪士)に対してどれだけ強く、恐れられたかはよく知られていますが、その内部事情は非常に厳格で緊迫していたかがお分かりいただけたと思います。
このような京都での活動中における組織内の厳しさが、後の新選組の運命においてどれだけの影響を与えたのかは計り知れないでしょう。